古賀市の文化・歴史をオリジナル脚本・作曲・ダンスによるオリジナル音楽劇を公演

劇団DAICOON
福岡県古賀市2-13-10
090-9479-1854

☆粕屋の屯倉  安曇族

みあけ史跡公園(粕屋の屯倉)
「みあけ史跡公園」は、JR「ししぶ駅」近くにあり、古代・大和朝廷の直轄地を管理する「ミヤケ」の可能性がある「鹿部田渕遺跡」を公園化したものです。 
平成11年(1999年)、古賀市鹿部土地区画整理事業による発掘調査の結果、「鹿部田渕遺跡」からは、6世紀中頃から7世紀初め頃まで使われた大型の建物群が見つかり、注目されました。平成14年には、東の区画溝も確認され、東西を溝で区画した空間の内部に倉庫や作業などに使われた大型の建物4棟をL字状に配置されていることが判明。一般的な古代集落とは大きく異なっており、奈良時代の地方官衙(かんが=役所)と似た特徴を持つ公的な性格の施設と推定されています。出土物は土や石で出来た網のおもり。祭祀に使われた舟形の土製品や滑石製品(古代~古墳時代)。大量の白磁や青磁(日宋貿易)その中かには五芒星☆が描かれた白磁が出土しています。

安曇族
九州の筑前国糟屋郡阿曇郷に栄えた安曇族は紀元前473年頃、遠く揚子江河口の越に
敗れた呉の太伯の家臣であったという。彼らは米と蚕を携えて五島列島に流れ着いた。
その後、奴国を建国し安曇族の首領が国王となった。
仇敵の越も楚に亡ぼされ、彼らは元宿敵であった呉人の保護を求め九州へ亡命した。
安曇族は水稲の技術と養蚕の技術日本海に面する河口から入り農地に適した入りあいの谷を探し、農業を始め、またさらに越人をも入植させて米作りと養蚕を奨励した。
そして、航海術に長けていた安曇族は、AD57年に後漢の光武帝から漢の奴国王の印
「金印」を授かって、絹織物や鹿の角、鉱物などの貿易を独占し富を築いた。
ここからは仮説ですが、「糟屋の屯倉」といわれている古賀の湊も安曇族の中心的な湊と
して行き来し、この倉庫群は輸入品もさることながら、武器も沢山備えてあったのかも・・